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ひと知れず されど誇らかに書け

「エビバデ」そして「ベイベ」について考えた

世間様にとっては大したお話ではない。
少々話題になっているファンの中での内々の呼び名についてのことを書こうと思う。

岡村ファンは世間から「ベイベ」と呼ばれている。
私がファンになった大昔は、この呼び名はまだ存在していなかった。
ちなみに岡村も「岡村ちゃん」などという親しい呼び方はされていなかった。
なにせ彼は「孤高の天才」だったから。
岡村、もしくは靖幸と呼び捨てにされていたことが多かったと思う。
よって、まず雑誌で岡村に「ちゃん」がついた、いかにも業界的な呼び方を見た時には、なんと馴れ馴れしいことよ…あの岡村に対して…とビクついていたら、これが世間にも思いがけず浸透してしまい、驚いたままで現在に至る。
今や完全定着。「岡村ちゃんこと岡村靖幸」という説明のされ方をしているのをよく見かける。
私もTPO(なんだ、TPOって)によって「岡村ちゃん」「ベイベ」の言葉を使うが、自分のことを「ベイベ」だとは全然思っていない。唯一、生まれ故郷で叫ばれる「仙台ベイベー」という言葉には抗いがたい感情は生まれるが。

どうやらそれに似た感情が「エビバデ」にも存在する。
エレカシファンに対する呼称の「エビバデ」は、もちろんボーカルの宮本さんの「エヴリバディー!」という、自分の声の届く範囲全て(っていうか、きっと全世界)の人に対する呼びかけからきている。常日頃の呼びかけのそれが、SNSあるあるの文字数制限からの短縮により「エビバデ」に定着し、いつの間にかそれがファンの呼称となったという説をお見かけした。きっとそうなのでしょう。

去年の荒吐で、TOSHI-LOWが「エビバデのみなさん」という言葉を使った際、これはギョーカイへの浸透率、意外に高いのね、と思ったものだが、その呼称を受け入れるか、はたまた自称するかは完全に自分次第。

岡村の「ベイベ」もエレカシの「エビバデ」もライブ会場に足を運んでくれた全ての人にむけての言葉であって、「自分のファン」に限定したものではない。
しかし、それを「私に、この私だけに向けて言ってくれた!」と思うのが高揚感あふれているライブの際の最たる妄想=ファン心理というもの。
そして、自分をその呼称=記号の枠に入れることによる安心感、連帯感を感じたいということも出てくるのであろう。

用心すべきは呼称が固定され広まることにより、それがそのアーティストのファン全員を簡単に示す「一般的な」言葉となり、良くも悪くも一括して世間は見るということ。
ファンの節度が問われやすくなるとも言える。何事も気をつけるに越したことなし。

私に関して言えば、これからもご本人から直接「あなたはベイベ確定です」「きみは今日からエビバデだ」と言われない限り(明らかに可能性0%)これらの呼称はなるべく使わない。

 

百年に一人の大天才、講談師の神田松之丞のラジオで、こんな話が出た。
あるラーメン屋に入ると、そこは明らかに矢沢永吉ファンの店。
いたるところに永ちゃんグッズがある。
そこで松之丞さんは店長に「矢沢さんのライブにはよく行かれるんですか?」と聞いた。
その店長の答えが「いや、自分。まだまだ矢沢さんのライブには行けないっす」

 

これだわ…。
わかりみが強すぎて苦しい。

 

私も自分の年齢や推しの年齢を慮ると、もう行けるときには生で観ておかなくちゃ!という
欲丸出しの状態でお恥ずかしい限りだが、呼称に関しては店長の言うところの「自分、まだまだっす」の気持ちでいっぱいだ。
「自分、まだまだベイベでもエビバデでもないっす」というのが今日の結論。岡村に至っては、ファン歴30年超えてるっていうのに(笑)。まあ、今わの際に「ベイベかつエビバデであった人生よ」とでも思えれば御の字だろう。

そして実は「ファン=ファナティック」という言葉の方が、この推し達に対しての今の自分の立ち位置に近いと認識している。


え?

それは余計やばい人なんじゃないかな🤔